ボイメンさん1日1曲紹介

「BOYS AND MEN」さんを応援するオタクのブログ

「田中俊介」さんという人について

 

なにかおかしい。

その、なにかが確信に変わったのは、2018年の11月だった。

 

その時のことを私は「こわい」とメモしている。こわい、推しが、田中さんがこわい…。恐くて顔が見れない、声が小さくて聞き取れない、うまく話ができない、笑顔がない、あの笑い声が聞こえない。隣に立つだけで精一杯だった。こわい、こわいよう、もう帰りたい、早くここからいなくなりたい、こわい、こわい、こわい……

 

そうして11月末。書くことがなくても、載せる写真がなくても、毎日、毎日、「おはよ」の三文字だけで嬉しくなれる、早朝の更新通知がまるで朝の挨拶のようになってしまうくらい、毎日続けてくれていた田中俊介さんのブログが、ふつりと途絶えた。

朝の更新がなくても、昼に記事をあげることも、夜になってしまうこともあったから、その日は更新通知がないかとそわそわしながら何度もスマホを確認していた。

だって、その日は、「俊くんが泣いていた」とレポを読んだシネコンの翌日だったから。

 

そこから少しずつ、田中さんは「イベント欠席」という告知が増えていった。

 

年が明けて2019年1月。

「BOYS AND MEN(ボイメン)」が夢見ていたナゴヤドームでのライブ公演が開催された。

登場した田中さんは頭を丸刈りにしていた。実は田中さんの坊主自体は珍しいモノではなくて、野球部だったこともあってか本人は元々坊主頭が大好きだったりして、ちょっとでも前髪が伸びてくると「うっとうしい!あたしゃもう切りたい!坊主にしたい!」って言ってたのだ。髪の毛が長いのと短いのがあまりにも極端で、それをオタクの間では「田中俊介の夏毛・冬毛」と呼ぶくらいだった。

ただ、この時の坊主は違った。ざくざくのよれよれだった。自分で衝動的にバリカンしちゃいました、というのが分かるくらい、じょりじょりの珍しい坊主頭だった。

ナゴヤドームでの公演中、田中さんに笑顔はなかった。全くないわけではなくて、笑っていたのはほんの一部分。あとはずっと「険しい」だった。あれだけ楽しそうにライブをやっていた人が。見てるこっちまでつられて笑顔になってしまうほど、楽しそうに歌って踊ってた人が。寄せられた眉間、険しい表情、だらだら流れる汗、誰とも目が合わない、この人は1人で立ってしまっている。ステージにも、客席にも、誰もいない、たったひとりのナゴヤドームだ。たったひとりで真っ暗闇の中でナゴヤドームと戦ってる。そう感じた。

そんなことないよ、みんなここにいますから。そんな風に、田中さんの隣に並んだ田村さんが、田中さんの腰をぽんぽんと優しく叩いた。平松さんが田中さんの肩に手を回した。その瞬間、田中さんの顔が見たことないくらいぐしゃりと歪んだ。歯を食いしばっている。あれは涙を耐えている顔だ。流れる汗と一緒に、田中さんの目から光るものが見えた。ああ、泣いてる。田中さんが泣いてる。精一杯なんだ。ここに立ってるだけで精一杯。しんどい、しんどい。でもほら、田中さんは1人じゃないよって。気づいたら涙が出ていた。ぬぐってもぬぐっても、涙が溢れた。ボイメンっていいな。仲間っていいな。心から思った。涙が止まらなかった。ボイメンの晴れ舞台なのに。肩にかけてたタオルがぐちゃぐちゃになるくらいまで、泣いた。

 

細々と活動を続けていた田中さんだったが、ナゴヤドームから二ヶ月後、「体調不良のため一部の活動を休止します」との本格的な告知があった。

ああ、やっぱり、と思った。そして「休む」という決断をしてくれた田中さんに、休むことを選んでくれてよかったと心からホッとしたのを覚えている。同時に、その選択肢を田中さんに与えてくれた事務所やメンバーにも感謝した。

ただ、「一部休止」という表現に引っかかった。全てではない、一部休止。それが、「ボイメンとしての活動」だった。

個人としての活動はできた田中さんに、何度か会いに行った。舞台、映画祭…映画祭は地元である新潟にも来てくれた。泣きそうだったのをこらえて、新潟にまた来てくださってありがとうございますと伝えた。おう、と返事した田中さんの笑顔は、いつもと変わらない笑顔だった。

 

 

突然だが、私は、田中俊介さんのオタクであると同時に、彼がボイメン内で田村侑久さんと一緒に活動していた2人組の派生ユニット「NO IDEA(ノーアイ)」のオタクでもある。それはもう、やばい 酷いほどに。

私がボイメンを知った頃にはノーアイとしての活動は下火になっていて、それでも田中さんも田村さんも「おれたちノーアイ」という気持ちを忘れないでくれていて、結成日やお互いの誕生日などでノーアイの話題を出してくれていたので、ありがてぇ…と本気で拝んでいた。オタクというよりはもはやモンペに近いものがあった。ただし親ではない、親戚のおばちゃんみたいな……結論、怪獣ノーアイババァである。

そんな怪獣ノーアイババァは、田中さんに接触をして田村さんのことを聞くこともあったし、田村さんから田中さんの話をされることもあった。むしろ田村さんは自ら田中さんの話題を振ってくる方が多かったように思う。田中さんも田村さんも、お互いを「相棒」と言っていたし、そういえば誕生日プレゼントに何を贈ったかとか、何をもらったかの話は毎年聞いていた。

私の中で「ノーアイ」という存在は、推しメンバー2人というより、派生ユニットの成り立ちや存在自体がすでに尊いものになっていて、オタク界隈でよく耳にする「推しって尊い…(合掌)」なんてものが私の中にもあるんだなぁって自分で自分のことを驚いてしまうくらい、この2人の関係性や存在が好きだった。ノーアイ尊い。それはもう、友だちも家族もだが、自分でもドン引くほどだった。怪獣って自覚あるほどだ。

 

そんなノーアイの片割れである田中さんがボイメンとしての活動をお休みしている間、私は田村さんに会いに行っていた。もともとリリースイベントでもノーアイ両人に同じ回数握手へ行っていたし、ランダムメンバーで田中さんが不参加のライブやフェスにもボイメン見たさに参加していたので、私にとってそれはごく普通のことだった。

田村さんとの接触は一種のアトラクション、という経験者の言葉を読んだことがあるが、まさにそれだと思う。わけがわからないことも多いけど、田村さんらしいさりげない気遣いに、いつも笑顔と元気をもらえる。田村さんは私が田中さん寄りのノーアイ推しだということを知っているので、田中さんがお休みしてからは「オレらは信じるしかできないからさ!信じて待とう!しゅんちゃんのこと信じよ!」と私によく話してくれていた。まるで田村さんが自分に言い聞かせてるみたいだな、と思っていた。

 

 

そんなこんなで、田中さんに異変を感じてから、1年が経った。

 

その間にボイメンというグループは、9人で走り続けた。何事にもまっすぐでがむしゃらに突っ走るボイメンだけど、いつもよりもそのスピードがちょっぴり遅く感じたのは、ことあるごとに「この船に乗っているのは10人」と田中さんの復帰を待ち続けてくれていたからだろう。グループの活動は休んでも、個人ではお仕事を続けていた田中さんをちょうどいい距離で見守り、時々田中さんの舞台を見に行ってくれたり、映画祭を宣伝してくれたり。ツイッターでは田中さんのツイートにリプライを飛ばしてくれていたこともあった。

ただ、田中さんはそれらに一切ふれることがなかった。

そうして、どんどん個人としての活動が増えていって、それが田中さん自身望んでオーディションに挑戦して勝ち得ているお仕事だと知って、役者としてのお仕事はボイメンの活動を平行してはやっていけないものだろうこともオタクながら薄々と感じていた。そんな個人の仕事があるうちはきっとボイメンに戻れないのだろうな、と。 

 

もともと、田中さんに異変を感じていたときに、頭の片隅で思っていたことがある。それは「田中さん、握手に行くと普通だ」「個人活動での舞台挨拶などは普通なんだよなぁ」ということ。

逆に考えると、田中さんにしんどみを感じたのは「ボイメンとしてのライブ」「ボイメンとしての舞台挨拶」でのこと。満足に喋れない、笑えない、どこを見ているか分からない、滝のような汗、何度もつばを飲み込む、声が出ない田中さんの姿は、ボイメンでの活動でことだった。ボイメンとしての場面に辛さを感じていて、でもどうしてそうなっているのか自分でも分からない、そういう状態なのかなと思っていた。

 

こういうのは回復するにはきっと長く時間がかかる。1年でなんとかなるものでもなさそうだ。2年でも3年でも待てる。みんな待っていてくれている。ボイメンのシルバーが立つことのできる居場所を作ってくれている。メンバーも、事務所も。そんな風に思っていた。

 

 

11月30日。

ブログとツイッターで、田中俊介さんがボイメンを脱退、同時に事務所も退所するということを知った。

お友だちはもちろん、知り合いからも、親戚からも、LINEで「大丈夫か?」と連絡がきた。

ツイッターでも心配された。

とりあえず、呆然とした。その場にへたり込み、ぼろぼろと溢れる涙が止まらなかった。嗚咽はこらえた。勢いのままツイッターのアカウントを削除した。何も、何も見たくなくて、でも容赦なくメンバーのブログが次から次にあがっていった。べっしゃべしゃに泣きながら読んだ。メンバーみんな、どれだけの覚悟をもってこの大きな決断をしたのか。きっとずいぶん前に決まっていたんだろう、それを当日発表まで言わないでくれ隠してくれと頼んだのはきっと…と思った。そういえば、田中さんが急にツイッターで謝ってたことがあったな、と思った。すぐに消されたけど、思えばそうだった。そういえば、田村さんから「信じて待とう」といわれなくなってたな、と思った。そういえば、そういえば。思い返せばたくさん心当たりがある。11月30日の前日の平松さんのブログだってそうだ。なにかの決意を感じる内容だった。ホールツアーでも何かあるたびに「おれたち10人」をいやというほど強調していた。そういえば、そういえば、そうだった。そんなことを考えても、田中さんがボイメンからいなくなることにはなんの代わりもないし、揺るぎない事実なのに、そういえばって何度も思った。

 

気づけばボイメンオタク5年生になっていた。

新潟の、新潟県民でも「辺境の地」扱いされるところから名古屋に通い始めて、5年生になった。もう少しで6年生になる。

2014年、仮面ライダー鎧武から小林豊さんを知り、田中俊介さんという人間のビジュアルを見たとき、本当に、自分の好みすぎて、あまりにも好みすぎて、こんな人間が本当にこの世に存在するのかと何度も自問自答して、お友だちから借りた「男の修行」のパッケージを何度も見ては、田中さんのビジュアルがあまりにも好みすぎて、ぎゃー!これはダメだ!!直視できん!!とパッケージをふせて…眺めて、伏せて、眺めて、伏せて、そんなことを2週間も繰り返し、お友だちに「いい加減に見なさいよ!」と後押しされて見始めたそこには、私の好みのビジュアルを持つ男が長ラン着てヤンキーで頼れる兄貴で、だけどおバカでがはははと笑うと可愛くて、ホントに生きてるのかと、こんな人間が3次元で、しかも会えるご当地アイドルやっているのかと……

会いに行って、たくさん話して、笑って、元気もらって、別れ際に必ずある肉球…いやいや肉厚なハイタッチもお決まりで。ライブには当たり前のように白ペンラを装備して、分かりやすいファンサービスなんてものはなかったけれど、いつも出席確認をしてくれる田中さんにいつしかどんどんその本数が増えてって。時々、1年にあるかないかのタイミングで歌ってくれるノーアイの曲「Stand Up」に嬉しくて何度も泣いて、あるときStand Upのイントロでわき上がったらしい私に、「オマエこうなっとったよな」ってご本人からげらげら笑いながら私のモノマネを披露されて、そりゃもう顔から火が出そうになったこともあったなぁって……いやあれは酷かった、全然いい思い出じゃないや……

新潟から名古屋まで夜行バスで8時間かかる。それも新潟駅からの時間だから、新潟駅まで車で2時間くらいかかる私にとって、名古屋までの道のりは10時間ほどだ。新幹線なら片道4時間半(+2時間)、飛行機は1時間(+2時間)。それでも会いたくて、会いに行きたくて、ボイメンが好きで、ボイメンのライブが好きで、田中さんが好きで、ノーアイが好きで、何度も何度も会いに行っていた。名古屋だけじゃない、北海道も、福岡も、1年で2回も岡山に行ったのにはさすがに驚いた。真夏の炎天下でも、真冬の日も、台風でも、土砂降りの酷い天気の日も、ボイメンに会いたくて、田中さんに会いたくて、何時間も並んだっけなぁ。

そんなのもなにもかも。 

楽しかった。あーーー、楽しかった。そうやって、心から言える。

 

ただ、田中さん自身は楽しくなかったかもしれない。あんなことを言っていたけれど、あんな風に笑っていたけれど、本当はオタクに会うのは辛かったかもしれない。私のようなオタクと接触をするのはしんどかったのかもしれない。そう考えると涙が溢れてくるけど、でも、ゆたかさんが、ずっと田中さんと一緒に走って、切磋琢磨してきたゆたかさんが「今までの気持ちに嘘はない」ってブログに書いてくれたから。その言葉でどれだけ救われるかって思った。すごいなぁ、ゆたかさんは。

 

衝動的に削除したアカウントを結局復活させてちょこちょこ呟いているけど、未だに「ボイメンの田中さん」がもう存在しないことを思い出しては、発作的にわぁわぁ泣いてる。何度でも手を振るよと歌う「ガッタンゴットンGO」はもちろんのこと、まこちゃん曲である「夢のカタチ」が流れてもだばだば泣いてる。だけどStand UpやCandorが流れてもすんっとしてたり。情緒不安定もいいとこだなって笑えてくる。

部屋を見渡して、DVDの棚を見かけるたび、もう「ボイメンの田中さん」が喋っている新しい映像はないんだなぁって思う。ノーアイ2体のクマやらノーアイぬいぐるみを並べて飾ってある祭壇を見て、もうこれ以上田中さんのグッズが増えることはないんだなぁと思う。いつでも出撃できるように充電されてるエネループを見ながら、もうこれを詰め込んだ白ペンラを振ることもないんだなぁってぼんやり思う。

 

そういえば、田中さんが脱退を発表した翌日、水野さん辻本さんそして田村さんが参加する新宿でのリリイベに私は行った。もともと駆けつける予定で新幹線を予約していたというのもあったし、この日にリリイベを予定したというのはきっとそれなりの覚悟があってのことだろうと思ったからだ。泣きすぎて目がパンパンに腫れてたし、朝4時に家を出なければ始発の新幹線に間に合わないのに深夜1時過ぎまで眠れなくて寝坊するんじゃないかって思ったらますます寝れなくて、最悪のコンディションだった。

当日、出会ったオタクたちはみんな優しくて、田中さんの話にあまり触れずにいてくれた。それまでのこと、そしてこの急な発表と誰が書いたか分からないようなブログに、他メンバーのオタクはきっと憤りを感じていただろうに。好きなことばかりしといていまさら何を勝手な、って罵られて当然だろうに。

ずーっと田中さんを気にかけてくれて、舞台にも駆けつけてくれた辻本さんにはいつかお礼を言いたいって思っていたのに、こんなタイミングになってしまった。ありがとうございます、ではなく、ありがとうございました、という過去形に。だけどいつも力強いことで有名な辻本さんの握手が、田中さん推しであることと感謝を伝えた私の手を握りしめ、それが、より、よりいっそう強いものになって、小さな声を振り絞りながら「……力になれんくてごめんな」って呟くように謝ってこられたので、違いますって、辻本さんが謝ることでもないし謝ってほしくなくて、全力で首を振って、自分なりに精一杯感謝を伝えた。その場を離れてから、ぼろっと涙が溢れた。

田村さんは、その顔を見た瞬間に泣きそうになり、それを必死にこらえていたせいか、正直何を話したか覚えてない。でも、「おまえが(現場に)来なくなったら、オレはおまえ以上に泣くんだかんな?!」という謎の脅しを受けたので、そうか、ってなった。泣いてないはずなのになって。私は田村さんを泣かせたいわけではないので、たぶんこれからもボイメンの現場に行くのだろうと思う。そこに、田中さんの姿はなくても。

やっぱり、わたし、ボイメンが好きなんだよ。

田中さんがお休みしてから、いつかの現場で田村さんにそう伝えたことがあった。田村さんは悲しいのか寂しいのか嬉しいのか、よく分からない笑顔を見せた。

 

ボイメンが好き。きっとそれは変わらない。13人のボイメンでもない、11人でもない、とうとう10人でもなくなってしまった、9人。形が変わり、9人しかいないボイメン。何事にもがむしゃらで、がっついて、泥臭くて、わちゃわちゃと個性溢れるボイメンを、私はこれからも応援していこうって思う。きっと田中さんの歌声や、踊ってる姿や、笑い声をいつまでも探してしまうだろうけど、でも私は「ボイメン」が好きなんだよなぁ。

 

ただ、ボイメンでなくなってしまった田中さんを、これから好きになれるかどうかはわからない。ボイメンにいたときのように、ギラギラきらきらした田中さんが、私には見つけられないからだ。けど、生きるために選んだ厳しい道を歩んでいこうとしているのは応援したい。生きようとしてくれた。わけのわからない病気を診断され、何クソと、もがいて、生きていこうと選んでくれた道だ。あえて厳しい道を選んだのだなと思う。事務所にも残らず、フリーランスを選んだのはそういうこと。そうじゃなければメンバーは田中さんについて話すことも写真を載せることもできないだろうから。ブログを残すこともできないだろうから。中途半端は嫌い、真面目で不器用だけど、とても優しい。仲間思い。義理堅い。そういうとこなんだよなぁって思う。らしいな、って。

 

 

このブログを書きながらも泣いてるし、まだまだ涙は尽きないけど、泣いて、泣いて、たくさん泣いて、少しずつ片付けて、田中さんからもらった笑顔や言葉たちを大切に何度も読み返しながら、これからもボイメン&田中俊介さんを応援していこうって思う。

寂しい。寂しいけど。やっぱり寂しいけど。これから「お仕事」をするうえでの「推し事」が増えた、生きがい、応援するものが純粋に増えたんだなって思う。推し増しってやつだ。すごいぞ。へへ。

 

 

あー、やっと書けた。気持ちがここまでくるのに10日もかかってしまった。日本語は難しくつたない言葉だらけだけど、自分の気持ちをアウトプットするという行為はとても大切だったんだなぁって思う。

 

 

吐き出すきっかけをくれたたかやまさんに感謝します。大好きだよ。今度あったらハグするね。

 

 ※12/11、一部分フォントの大きさがおかしくなっていたのと、一部分修正&加筆しました。